教団紹介

私たちの教団「同盟福音基督教会」の歴史

前史1―ドイツの「自由福音教会同盟」

私たちの教団の歴史は、聖書の教会から始まっています。キリストの教会は、ほぼ500年の初代教会時代と古代教会時代を経て、中世のカトリック教会とオーソドックス教会の、いわゆる東西教会時代に入りました。その約1000年後、教会の主イエス・キリストは、聖書から離れてしまったカトリック教会の中に、宗教改革を起され、プロテスタント教会が生まれました。

ドイツでは、ほぼライン川以北がプロテスタント領邦国家になり、その後、ドイツの国教会は、幼児洗礼を受けた国民全員を教会員としていました。

しかし、やがて多くの人々は、正統的なキリスト教の教えを知ってはいるけれども、主を信じて新しく生まれることもなく、主と共に歩むこともない、名前だけのキリスト教徒になってしまいました。このような時代に、教会の主は、敬虔主義運動を起され、国教会の中に、主を信じて聖書に従う信者の群れを生み出されました。

19世紀半ば、16歳の絹織物の職業訓練生が主イエス・キリストを信じました。彼の名をグラーフェといいます。彼は、フランスのリヨンで「自由福音教会」を知りました。そこでは、キリストを自分の主と告白し、その告白にふさわしい生活をしている者だけが教会員として受け入れられるのでした。その後、グラーフェは、1850年に創設された「福音兄弟協会」に属する、同じ信仰を持った人々と共に、主の福音を各地に宣べ伝えました。この超教派伝道団体の働きを通して生まれた信者達は、各地で、国教会とは別に、「聖餐式の集い」を始め、共に熱心に聖書を学んでいました。

1854年、グラーフェは、5人の信友と共に、所属していた改革派教会を脱会し、エルバフェルト・バルメンに、ドイツ最初の自由福音教会を創立しました。それは、国家から自由な、信者だけが教会員になれるという教会で、教会組織は長老制でした。自由福音教会は、聖書信仰に立ち、聖餐式を重んじ、罪深いこの世から分離した生活を励みました。この教会は、20年後には、250名の教会員を持つ迄に成長しました。

1874年9月30日、ルール地方から中央ドイツの各地に生まれていた「聖餐式の集い」の代表が集り、22の教会とその1275名の会員によって、「自由福音教会同盟」=ドイツの教団が結成されました。「同盟」は、敬虔主義・福音主義の信仰に立つ、自立した諸教会の、霊的で有機的な奉仕の交わり」です。同盟は、海外宣教、国内宣教、教会建設、神学教育、福祉、出版等の働きをしています。

ドイツの「自由福音教会同盟」の海外宣教局が、日本に宣教師を派遣している「ドイツ・アライアンス・ミッション」です。次回は、この宣教団の略史を紹介します。

前史2―ドイツ・アライアンス宣教団の歴史

私たち「同盟福音キリスト教会」は、ドイツの「自由福音教会同盟」の宣教局である「(ドイツ)アライアンス宣教団」から派遣された宣教師の働きを通して生まれました。アライアンス宣教団は、1889年に設立されました。

「中国奥地伝道団」を創設したハドソン・テーラーからの、「1000人の宣教師を中国へ!」という呼びかけに応え、フランソン師やクリスチャンの実業家たちが中心になり、「アライアンス・チャイナ・ミッション」が生まれました。翌年には最初の3人の宣教師が中国へ派遣されています。1949年、

共産党政権である中華人民共和国が成立し、「中国人の、中国人による中国及び中国人のための教会建設」を目標とする三自愛国運動が推進され、外国人宣教師は不必要とされ、国外退去させられてしまいました。アライアンス宣教団は、1951年に日本を次の宣教地と決定し、翌年、名称を「アライアンス・ミッション・バルメン(=地名。現在のヴッパタール市東部)」と変更し、新しい世界宣教の働きを始めました。その後、アライアンス・ミッションは、次々に新しい国々に宣教地を拡大し、今日では、ドイツの福音派宣教団体では最多である150人以上の宣教師が、世界各地で奉仕しています。

アライアンス・ミッションの基本理念は、「主イエス・キリストへの救いの信仰を宣べ伝え、神の愛を言葉と行ないによってあかしし、信じる者をイエス・キリストに従うように導き、キリストの教会を建て上げることにより、神の栄光を現す。」ということです。この宣教団のモットーの下、15以上の国と地域において、聖書翻訳、伝道、教会開拓、神学教育、医療支援、子どもや青年の働き、飢餓や災害被害者援助、文書伝道、ラジオ放送等、さまざまな分野で、宣教師たちは奉仕しています。神の救いは性、血統、人種、国籍、宗教等には関係なく、全ての時代の、全ての人に必要です。誰もが言葉と行ないによって神の愛を知るべきです。そのために、アライアンス・ミッションは、全的福音を全人類に宣べ伝えているのです。宣教団の本部は80年代からヘッセン州中部のエーバスバッハにあります。ドイツ自由福音教会同盟の神学校が隣接しています。

私たち「同盟福音キリスト教会」は、日本における50年に及ぶドイツ・アライアンス宣教団と多くの宣教師たちの働きに感謝をしましょう。また、戦後の日本同様の敗戦国であったドイツの自由福音教会同盟の兄姉たちが、自分たちの国と教会の復興のための働きよりも、主イエス・キリストから教会が委託された世界宣教の働きを優先して、日本に宣教師を派遣してくださり、長年にわたり、私たちの教会を支援し続けてくださっていることを感謝しましょう。そして、私たちは「救われたのは救うため、宣教されたのは宣教するため」というモットーのもと、日本と世界の全ての人々に、主イエス・キリストの福音を宣べ伝え、全世界にキリストの教会を建て上げる、主の救いのお働きに献身しましょう。

未伝地への伝道

1951年9月14日、アライアンス・チャイナ・ミッションの宣教理事会は、主の導きの中で、日本を、宣教師を派遣出来なくなった中国の次の宣教地として決定しました。当時の日本は、1945年の敗戦の荒廃からようやく立ち直りつつあり、全国の教会は青少年であふれていました。総人口は約850万人、クリスチャン人口は40万人ないし45万人と言われ、欧米からの100近くの宣教団体が、日本での働きを開始していました。しかし、当時の教会に日本人の働き人はまだ少なく、農漁村の大半は未伝地というありさまでした。

日本宣教を決定した翌年、宣教団は、名称も「アライアンス・ミッション・バルメン(当時宣教本部があった町の名前)」と変更し、新しくスタートしました。そして、1953年1月23日、日本への最初の宣教師、マリア・ハーデンベルク師が、讃美と祈りの中に、ドイツを出発したのです。当時は二ケ月におよぶ船旅でした。こうして、長い間中国での宣教活動に従事していた女性宣教師が、日本最初の宣教師として横浜港に到着したのは、同年3月22日のことでした。同年9月には、さらに一人の女性宣教師が、翌年9月には、最初の男性宣教師、ウェルナー師が、それぞれ母国を離れたのでした。

アライアンス・ミッションの日本での宣教活動方針は、最初、「信仰と聖書観を同じくする日本の教会に協力する。日本の教会が主体で、ミッションは援助と助言をする」というものでした。この方針に従い、日本語の学びを終えた二人の女性宣教師は、日本基督教団の志木教会で奉仕を始めました。

しかし、1956年の初め、ウェルナー師は、アライアンス・ミッション独自の働きを開始するために、主の導きを祈り始めました。伝道地は、全く福音が伝えられていない未伝地であるべきでした。同師は、当時日本中で一番福音が伝えられておらず、伝道者が少ないと言われていた、岐阜県に宣教の重荷を持ち、復活節には羽島を視察しました。当時羽島の人口は4万人程で教会が無く、岐阜県は人口53,000人に一人の伝道者しかおらず、当時の全国平均の半分の働き人の数でしかないというあり様でした。ドイツでも将来の伝道地決定のために、教会の主の確かな導きを求めて祈り続けられました。そしてついにウェルナー師は、羽島周辺を、主のみ心の地と確信して移り住み、同年9月に伝道活動を開始することとなったのでした。

なおこれより2年前、アライアンス・ミッションは、ブラジルを第2の宣教地と決定して、宣教師を派遣し始めています。日本では、戦後10年目の1955年に口語訳聖書(聖書協会訳)が完成し、翌年には、アメリカから初来日したビリー・グラハム師による伝道集会が開催されています。また、日本は、1956年12月に、国際連合に加盟しました。

一つの教会

1945年に第二次世界大戦が終わり、宗教団体法が廃止され、日本の教会は復興と再編の道を歩み始めました。今日福音派に属する多くの教派が、太平洋戦争前に国家の強制で統合されて成立した「日本基督教団」から独立し、元の教派、あるいは、新教派として出発しました。また、多くの宣教師が来日して、多くの教会が開拓され、新しい教派が次々に創設されました。

1950年代は、宣教のための教会協力の時代と言えるでしょう。多くの宣教団体、多くの教派、そして、児童、学生、青年、文書、放送伝道等々、多くの超教派の働きも始まりました。日本福音連盟が発足し、宣教百年記念大会(1959年)開催を契機に、日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)が結成されました。クルセード方式の大衆伝道にも多くの教会が協力するようになりました。日本で福音派の教会協力が前進しただけでなく、世界でも、WEF(世界福音同盟)の総会が、この時期3回開催される等、宣教のための教会協力が前進していました。

このように、教会の主が、日本での福音宣教と教会建設の働きを力強く進めておられる時代の中で、私たちの教団の最初の教会である、羽島教会が開拓されました。「1956年9月3日、ウェルナー師、小雨降る竹鼻駅頭に立つ。これより福音宣教の火ぶた切らるる。まず竹鼻駅前の一部屋を借り宣教の一拠点とす。」 教団の機関誌「エクレシア」の創刊号(1956年発行)は、羽島での宣教開始をこのように伝えています。自転車店の二階が最初の集会所でした。翌10月13日から、羽島で最初の天幕集会が開かれました。最初の晩の天地創造の映画上映会は、「町中こぞり来たりしが如く大いに祝福される。」と、エクレシアの伝える通りの盛会で、300名が映画館を埋め尽くし、入れない人は外で説教を聞くというありさまでした。10日間の特別集会では、60名の決心者が起こされ、35名が聖書研究会に出席するようになったと報告されています。こうして羽島における福音宣教は、本格的に開始されたのです。

1956年に羽島と笠松、翌57年には尾西と木曽川における宣教が開始されています。同年春のイースターに、羽島教会最初の洗礼式が行なわれ、6名の兄弟姉妹が受洗しました。教団最初の宣教の実でした。各地での伝道は祝され、特別集会に50名、時には100名の参加者があるのも珍しくありませんでした。どの教会でも毎年洗礼式があり、成長を続けていました。1961年迄には、羽島、尾西、笠松にそれぞれ教会堂が建てられました。同年8月には、恵那にあるキャンプ場で、教団最初の夏期修養会が行われ、30名以上が各教会から参加しました。この時期の後半には、第二陣の宣教師達が来日し、信徒の中から献身者も起こされ、神学校へ入学しています。

教団の開拓期である、1956年から1961年の間に、教団の基礎ができたと言えるでしょう。そして、この時期に「教団は一つの教会である」という教団理解が形成されていきました。この頃、4つの教会は一つの教会のように、交わりを持ち、互いに協力していました。どの教会の信徒達の中にも、朝は所属教会の礼拝に、夜は別の教会の伝道集会に参加する者が多くいましたし、一つの教会の特別集会に、他の三つの教会の信徒達が求道者を連れて参加するのが当たり前でした。修養会に集まれば、皆が顔見知りで、それぞれの教会に与えられた主の恵みと祈りの課題を分かち合っていました。

こうして、1961年3月1日に設立した宗教法人の名称は、「同盟福音基督教会」となりました。法人名を「福音基督教会同盟」や「教団」としないで、「教会」とする事によって、主にある教会の一致を表現しているのです。「同盟」は、宣教団の名称「アライアンス」の訳ですが、教会の協力を表現しています。私たちの教団の名称には、「アライアンス(教会協力)精神を持ち、福音を宣教する、キリストの教会」という意味があるのです。

単独の宗教法人として教団を設立する迄には、多くの議論と調査と祈りが必要でした。ドイツ・アライアンス宣教団は、日本宣教開始当初から、世界のキリスト教会(公同教会)の一致を実現するために、出来る限り他教団と協力するという方針を持っていました。そこで、この時期、TEAM(米国福音アライアンス宣教団―ドイツ・アライアンス宣教団とは姉妹宣教団)によって設立された教団等、信仰的に近い立場の教団に加盟する可能性も検討されました。最終的には、より有効な宣教活動の推進のために、単独の法人として歩む決断がされましたが、福音のための教派を超えた教会協力は、継続されています。法人設立の年から、欧米の自由福音教会系の諸教団との交わりと協力を始めていますし、東海地区におけるさまざまな超教派の働きにも、積極的に協力し続けていますし、後日、日本の福音派の教会の交わりである、「JPC」、さらに、「JEA(日本福音同盟)」にも加盟して、日本と世界の教会の交わりと協力の働きに参加しています。

この時期の終わりには、伊勢湾台風が猛威をふるい、ソ連のガガーリンが人類で初めて宇宙旅行をし、ドイツ・アライアンス宣教団の責任者が、チママン師からフリック師になり、同師は翌年日本を訪問されました。

働き人

1960年代になると、宣教師たちが新しい開拓伝道を始めるとともに、神学校を卒業した日本人牧師が牧会を始めました。宣教師が開拓伝道をし、牧師がその働きを引き継ぐというパターンが始まり、やがて定着していきました。当初は、開拓後数年で引き継ぎがされていましたが、後に、開拓10年以上が経って、教会が自立できてから、牧師が替わるようになりました。

当時教会には若い人が多く集っていましたが、結婚や就職その他問題で、信仰・教会生活が乱れ、礼拝から遠ざかる人が増加していました。また当時、特に、戦後に生まれた教会では、「三年で数は変わらず、顔変わり」と言われたり、受洗後数年のうちに半分程の人が教会を去る等と嘆かれたりしていたのです。しかし、このような残念な状況は、日本人の働き人の増加とともに次第に改善され、クリスチャン・ホームも増加し、教会役員も各地の教会に立てられていくようになりました。教会の主は、必要な働き人たちを若い教会に与えてくださったのでした。この頃から、信徒のための修養会がよく計画され、夏の伝道キャンプと新年の信徒修養会等が年中行事になりました。

60年代後半には、ドイツの教団の青少年献金によって、「根尾クリスチャン山荘」が建設され、今日に至る迄、伝道と教育のために用いられています。また、教会形成のガイド・ラインとして「教会憲法」が制定され、教会間の交わりと信徒教育のために、教団機関紙「エクレシア」が創刊されました。

この時期、新任また再来日した宣教師によって、岐阜、一宮、古知野等の教会が開拓されましたが、さらにこの頃から、すでに建てられていた教会によって、次々と伝道所が開設されました。今尾、柳津、祖父江、萩原、奥町、穂積等です。しかし、宣教師か牧師がその地に住んで、伝道牧会した伝道所は、10年程で一つの教会に成長していきましたが、専任の働き人が住んでいなかった伝道所は、十分に成長できませんでした。週日の伝道集会だけが持たれた所は、長く働きが続けられても、大半が小さい群れのままとどまり、やがて伝道が中止される所もありました。

このことから、「日本の伝道と教会形成のためには、専任の働き人がそこに住む必要がある」という教訓が、学ばれると同時に、「各地域教会が、新しい教会を生み出す力を持つ教会へ成長する」という課題が与えられたのです。

またこの時期以後、いわゆる婦人伝道師が、各地の教会で協力奉仕を始めましたが、結婚等の理由で辞める人が多く、私たちの教団には、長期間奉仕する日本人で独身女性の働き人はいないのが実情です。それに対して、独身の女性宣教師は、その多くが長く奉仕を続けています。いったいどこに違いがあるのか、この問題は十分評価検討されていないように思えます。

時代は、高度経済成長期に入り、東京オリンピック、中国の文化大革命、ベトナム戦争の拡大、そして、中東戦争へと大きく動いていました。

伝道協力

1960年代は、日本のプロテスタント信徒数が、全体としても、福音派としても、ほぼ倍増した時代で、大衆伝道や総動員伝道をはじめ、多くの各種伝道団体が、全国で活発な活動を展開しました。新しい教派が生まれる時代は終わっていましたが、多くの教派で日本人の働き人が増加し、宣教師から日本人へ指導者が交替するようになり、70年代に入っても、引き続き、多くの新しい教会が開拓されていました。私たちの教団も、東海、名古屋、岩倉、西春師勝、大垣等の教会を開拓しました。

この期間は、各教会がすでに開拓していた伝道所の働きを進め、幾つかはやがて自立教会となりました。また、各教会は、教会内部の充実と教会形成に励んだ時といえ、各々の教会に特色―個性が出て来たのもこの時期です。

教会のある地域が拡大していったため、教会間の交わりは少し困難になりましたが、教団としては、新年修養会や夏期キャンプ、合同集会(青年と婦人の合同集会も開催)等を毎年計画し、トラクト等による文書伝道、ラジオ伝道(世の光)、病院伝道等も含め、伝道協力を推進しました。地域での世の光大会やクリスマス合同集会等も開催され、超教派でのリバイバルクルセード(羽島、一宮、名古屋等)、ヤングクルセード(名古屋等)の他、テレビ伝道(東海地区他)、総動員伝道(全国各地)、ビリーグラハム国際大会等が推進され、教団の多くの教会が、教派を超えた伝道協力に参加しました。

さらに、日本各地で、「宣教の集い」が持たれ、60年代後半に設立された「日本福音同盟」は、1974年に京都で第一回「日本伝道会議」を開催しました。同じ年、スイスのローザンヌでは「世界伝道会議」が開かれ、「ローザンヌ誓約」が採択され、各地域における伝道と世界の福音宣教は、全ての教会の協力によってのみ達成可能であることが宣言されました。

70年代初めに、100名程だった教団の教会員総数は、1980年には500名を超え、教会数も14となりました。これは、この時期の積極的な伝道協力の実と言えるでしょう。70年代は、伝道のために協力することが必要であり、重要であることを学んだ時代なのです。

日本のキリスト教界を見ると、70年代は、主流派(日本基督教団等)が万博キリスト教会館問題から混乱し、いわゆる教会派と社会派の対立が表面化して、教勢が伸び悩んでいた一方、福音派では新改訳聖書の刊行、日本福音主義神学会や海外宣教連絡協力会の設立等、各方面で働きが充実し、全国で教勢を拡大し、主流派に匹敵するか、もしくは、それ以上の礼拝出席者が集うまでになり、大半の教派のリーダーシップは日本人の手に移り、戦後に神学校教育を受けた働き人が増加していきました。

一般社会では、万博、連合赤軍事件、沖縄返還、ロッキード事件等があり、戦後の新興宗教が急成長し、キリスト教の異端が社会問題化しました。

宣教計画

1970年代半ばから、私たちの教団はそれ迄と違った歩みを始めました。

それは、宣教計画を立てて成長を目指すという歩みです。教団総会では、各教会の教勢報告をする事になりました。使徒1:8のみ言葉に従った、教団最初の宣教10ヶ年計画は、1974年に17教会、約330名会員だった教勢を、1985年迄に、21教会、800名会員とする目標を目指して、1975年にスタートしました。結果は、18教会(翌年には20教会)、約730名会員でした。最初の計画がほぼ達成できた事を感謝し、1986年に立てた新宣教10ヶ年計画は、マタイ28:19-20の宣教命令に従い、10年間に、愛知、岐阜、三重に新しい教会を9ケ所設立し、2000名の会員を目標としました。この計画では、自立教会による10の枝教会設立、聖書教育教室やCS教師研修会等の開催、信仰規準解説書等の発行等の教育計画と、福祉計画等も立てられました。10年後の1995年末の教勢は、24教会、約1100名会員で、数量的な目標は達成されませんでしたが、教育と福祉計画は少しずつ着実に実行されるようになりました。これ以後の宣教計画は、期間を5年とし、教団全体の数量的な目標は掲げず、各教会の成長を目指し、各委員会の活動計画を主な内容としています。

1981年には、宣教25周年記念大会、1991年には、宣教35周年記念大会が開催され、1986年には、最初の教団宣教師として、宮園師夫妻が、ブラジルへ派遣されました。

私たちの教団で、80年代に開拓された教会は、可児、芥見、佐織(後に津島佐織へ)、天白、大山田、下仁田、四日市、岡崎です。

80年代には、第2回日本伝道会議が1982年に京都で、第2回世界伝道会議が1989年にマニラで開催され、同じ年には東西ドイツが統合するという大きな出来事がありました。1986年には新生日本福音同盟が発足し、1987年には第1回東海宣教会議が開催されて、福音派の宣教協力と交わりが成長しました。

80年代は、日本のキリスト教界では、教会内外の論争と教会内の多様化の時代と言う事ができます。靖国神社問題、大嘗祭問題、統一協会問題等、国家と社会との論争が盛んになるとともに、福音派内でも、教会と各種伝道団体との協力問題、無誤性に関する聖書論論争、カリスマ運動やその後の第3の波に関する論争等が活発に行なわれるようになりました。世界でも、解放の神学の問題、伝道と社会的責任との関係、カリスマ運動等の問題等が議論されました。日本基督教団内では、福音主義教会連合等が独自の交わりを深め、福音派でも、日本福音同盟が再編されるとともに、いわゆる聖霊派は独自の交わりを深めていくようになりました。この時代、福音派は、右肩上がりの成長から、緩やかな成長をする時期に入りました。

さまざまな分野の働き

私たちの教団は、今日迄さまざまな分野の働きをしてきました。最初の教会を開拓した頃から続けている働きは、放送伝道です。太平洋放送協会による世の光の福音放送を支援して、視聴者への聖書通信講座等によるフォローアップも続けています。かなりの人々が主の救いの恵みに与っています。1979年からは、何度か超教派の協力伝道として実施されたテレビによる福音放送も支援しています。現在は、福音放送協力会が東海地区での放送による福音宣教の働きを担っています。

宣教師による語学伝道も、開拓期から行われている働きで、近年はドイツのアライアンス宣教団から派遣されてくる若い短期宣教師達が、各地の教会でドイツ語や英語クラス伝道をしています。この働きの実も結ばれています。

海外宣教の働きには、1986年に宮園宣教師をブラジルに派遣して参加し始め、その数年後に、後藤ルツ子師をフィリピンに派遣し、日本自由福音教会連盟の世界宣教局を支援しています。私たちは、主イエス・キリストの世界宣教のお働きへ参与し続けていく教会でなければなりません。

1967年にドイツの青年達の献金で建てられた根尾クリスチャン山荘で、教団はキャンプ伝道の働きを続けています。1991年には西軽井沢にのぞみの村のリトリート施設が建てられています。多くの人々が、主への信従と献身を決断し、教会員としてまた教会奉仕者として成長しています。

1986年に岐阜で始まった、希望センターでの障碍者への福祉の働きは、3年後一宮に、さらに1998年から稲沢に場所を移して続けられました。2003年からは、ホープユースセンターの働きが希望センターで行われています。学生青年だけでなく、子ども達への伝道の働きも、さまざまな形で行われ、多くの教会員達は、幼い頃から主と共に歩んでいます。

1985年にスタートした東海聖書神学塾を支援して、教団は献身者育成の働きに参加しています。2000年からは、金山クリスチャンセンターで、名古屋金山教会とCLC(キリスト教書店)と神学塾の働きが進められていますが、教団は、東海地区のさまざまな超教派の働きに参加しています。

1992年には、常滑教会が教団に加盟し、5年後武豊に移転しました。三好では2001年に開拓伝道が始まり、翌年には、1985年祖父江教会の伝道所として始まった稲沢教会が、教団の開拓教会となりました。この時期、神明教会と岡崎国際教会が宣教協力教会となりました。

1990年代は、教会の公同性を求めつつ21世紀に向かう時代でした。福音派で、いわゆる聖霊派が1996年に日本リバイバル同盟を結成する等、多極分化の傾向が顕在化しましたが、第3回日本伝道会議が開催されたり、多くの教派が合同する等、教会の公同性の具現化を目指す働きも顕在化していきました。また、主の降誕2000年記念行事も実施されました。

教団の規則について

今回は、私たちの教団の規則の変遷を概観してみましょう。

宗教法人「同盟福音基督教会」としての最初の教団の規則は、宗教法人の認可を受けた1961年に制定して、所轄庁の岐阜県に届け出されました。この規則では、教団総会は宣教師会で、教団役員は全員宣教師でした。7年後の1968年に一部変更され、教団の役員に牧師が選出されることになりました。また、1989年に、「公益法人」の認可を受けるために、再度一部変更され、教団役員が6名になり、監事2名が選出されることになりました。

さらに、2000年には、オウム真理教の事件を受けて大幅に宗教法人法が改正されたのに伴って、所轄庁が文化庁に変わり、同庁からの宗教法人法の改正に伴う規則変更の要請があったのと、金山クリスチャンセンターで収益事業(クリスチャン文書伝道団=CLC名古屋店に部屋の賃貸借をする事)を開始するのに伴う規則の変更を行いました。

私たちの教団には、宗教法人規則の枠内で、内規を定めています。これが、いわゆる教団規則で、1981年に制定しました。この規則は、1989年に変更した宗教法人規則に整合した内容にするために、1992年に一部を改正しましたが、2000年に大幅な変更した宗教法人規則に整合した内容への改正は、2007年末現在まだされていません。

宗教法人規則と教団規則以外の教団の重要文書には、教団の「信仰基準」と「教会憲法」があります。1964年に、最初の「信仰規準と教会の契約及び憲法」が、「教役者規約」とともに制定され、1977年に「教会憲法」が、1989年に「信仰規準」がそれぞれ改定されました。「教会憲法」は、各地域教会の目的と理念、組織と運営等に関する基準です。各地域教会は、この憲法を遵守する必要があります。また、「信仰規準」は、私たちの教団の信仰的教理的立場の公的な表明です。信仰規準の解説も教育委員会から発行されていますので、ぜひ各教会で学んでください。

その他の規則としては、1980年に協議された(牧師のための)「退職金制度運用規則」、1986年にAMからの提案を検討して決めた(教会堂建設に関する)「プロジェクト基金運用規則」、1987年に労働基準監督署に届け出た「就業規則」(これは2005年に勤務時間と有給休暇等に関する規則を一部変更)、また、2003年に教団とAMの間で協議決定した「同盟福音基督教会とドイツ・アライアンス宣教団との宣教協力合意書」があります。経済的困難の中にある自立教会を教団の教会が協力して支えるための「教会支援に関する規則」は2005年の総会で承認されて、運用されています。「教役者の給与=謝儀に関する規定」は1997年の3月総会で、「教役者の定年と定年後の嘱託奉仕について」のガイドラインは、2006年の11月総会で承認されました。

教団の組織について

私たちの教団の組織は何度か改編されて今日に至っています。

1953年、ドイツからの最初の宣教師が来日してから、1961年に、宗教法人「同盟福音基督教会」が設立される迄、教団組織としてあったのは、宣教師会だけです。法人設立後は、教団総会は事実上宣教師会議でしたが、牧師と信徒代表も参加する評議会が設置され、伝道と財務(特に牧師給与等について協議)に関する諮問をしました。教団役員は当初全員宣教師でしたが、7年後には、牧師も選出されることになりました。76年には、伝道、教育、財務、教会学校委員会が設置されました。他に毎年「会計の集い」が開催されていましたが、これは後に「教役者謝儀審議会」へ移行しました。78年には、後に、キャンプ委員会となる山荘委員会も設置されました。

1981年には、内規の「教団規則」が制定され、総会は3月と11月に開催される事になり、秋に開催されていた評議会は廃止になりました。教団役員会は、牧師3名と宣教師2名で構成される事となり、全牧師と宣教師の教役者会が諮問機関として正式に発足しました。さらに、それ迄あった委員会に加えて、国内宣教委員会と福祉委員会が設置されて、学生、青年、婦人、壮年の各会がスタートしました。教団壮年会は、86年迄、毎年合同壮年会を開く等の活動を続け、婦人会は後に、「女性の会」と名称を変更しました。

教会は、援助教会と自立教会に区別され、全ての教会が自立教会となる事を目標として前進し始めました。教役者は、主任牧師として奉仕できる正教師(男性のみ)、補教師(男女)、伝道師(女性のみ)の3種類となりました。

1982年には、伝道委員会の中に海外宣教小委員会が設置され、86年に、ブラジル宣教協力会が発足し、92年に海外宣教協力会となりました。

89年に墓地運営委員会が設置され、92年に、福祉とのぞみの村と共に、委員会になりましたが、墓地建設には至らず、2002年に解散しました。委員会は、95年に、伝道委員会を国内宣教委員会へ統合し、阪神大震災の救援活動の実として、災害救援委員会が設置されました。90年には、4つの地区別の教役者会と評議員会が設置され、地区毎の協力伝道、合同女性の集い、合同集会等の活動が始まりました。地区別評議員会は、11月総会の準備のために10月に開催されますが、各地区の交わりと協力の充実のための計画も立てます。地区は、2005年に5地区に変更されました。

各委員会の委員は、設置当初は教役者だけでしたが、93年からは、教会の承認を前提に、信徒を登用し始め、教団役員会の委託諮問機関だった委員会は、96年から責務と権限を変更し、教団役員会が指導調整はしますが、教団総会へ活動計画と予算等を直接提案できる、教団総会直属の実務機関となりました。現在は、海外、国内、教育、教会学校、キャンプ、のぞみの村、福祉、救済、機関誌の9委員会があります。

教団史のまとめ

私たちの教団の50年の歴史を概観してきましたが、今回は纏めにします。私たちは、聖書を誤りのない神のみ言葉を信じるプロテスタント教会で、主イエス・キリストと主の福音に献身したキリスト者の群れです。私たちは、ドイツ敬虔主義と自由福音教会を信仰のルーツ=源流としています。私たちは、主のみ言葉に立ち、み言葉に従い、み言葉を伝え続ける、キリスト者、教会でなければなりません。

私たち同盟福音基督教会を生み出すために、主に用いられたアライアンス宣教団は、超教派の宣教協力団体です。私たちは、同盟精神を堅持し、主の公同教会の交わりと、超教派の宣教協力を重視しています。私たちは、日本福音同盟、日本自由福音教会連盟等に加盟し、東海地区等での様々な超教派伝道の働きに協力しています。また、私たちは、世界宣教の実である教団として、宣教師を派遣し、世界宣教の働きに参与していく情熱を持ち続けなければなりません。

私たちは、福音がまだ伝えられず、教会がない未伝地に、開拓伝道をするという、教団創立時のスピリットを持ち続けなければなりません。しかし、私たちは、自立教会を建て上げることを、伝道の第一の目標としています。

自立教会は、経済的に自立しているだけでなく、礼拝、伝道、教育、交わりの奉仕の働きにおいても自立し、長老や執事達の役員会が自立した組織運営をする教会です。教団の働き人である教役者は、招聘され派遣された教会の役員達と協力して、自立教会を建て上げ、さらに、新しい教会を生み出していかなければなりません。教団は、自立した地域教会が協力して、宣教計画に基づいて、「福音を宣べ伝え、聖書に基づいた、主に喜ばれる教会を建設する」群れです。

「同盟福音基督教会」は、一つの信仰規準を持ち、一つの教会憲法と教団規則に立つ、一つの教会です。私たちの教団のアイデンティティが、十分に確立しているとは言えないかもしれませんが、全ての教役者と全ての各地域教会(特に役員)は、教団の理念と方針を十分に理解し、協力関係を強め、交わりを深めていかなければなりません。しかし、私たち同盟福音基督教会は、主の教会である各地域教会の自立を尊重しています。どこまで、各教会の独自性と多様性を認めるかは、なお議論していく必要のある課題ですが、会衆的な長老政治によって運営される教団として、聖書的な多様性における一致と、それに基づく協力と交わりを実現していかなければなりません。

私たちは、主イエス・キリストに、十字架と復活の福音を信託された主の弟子の群れとして、主の栄光を現わすために、聖霊に満たされて、志と心を一つにして協力し、日本と世界で主の使命を果たしていく教会として、前進し、成長しましょう。

以上文責・後藤喜良(元「同盟福音基督教会」代表役員)

*この「教団の歴史」は教団の機関誌「エクレシア」に連載したものです。

  「ドイツ自由福音教会同盟」

私たちの教団の歴史は、聖書の教会から始まっています。キリストの教会は、ほぼ500年の初代教会と古代教会時代を経て、中世のカトリック教会とオーソドックス教会の東西教会時代に入りました。その約1000年後、教会の主は、聖書から離れてしまったカトリック教会の中に、宗教改革を起され、プロテスタント教会が生まれました。ドイツの教会は、幼児洗礼を受けた国民全員を教会員とする国教会となり、多くの人々は、正統的なキリスト教の教えを知ってはいるが、主と共に歩むこともない、名前だけの信者になってしまいました。このような時代に、教会の主は、敬虔主義運動を起され、国教会の中に、主を信じて聖書に従う信者の群れを生み出されました。

19世紀半ば、キリストを自分の主と告白し、その告白にふさわしい生活をする者だけが教会員となる「自由福音教会」が、ヨーロッパ各地に生まれました。1854年、グラーフェと5人の信友が、ブッパタール市バルメンに、ドイツ最初の自由福音教会を創立しました。それは、国家から自由な、信者だけの教会で、教会組織は長老制でした。信者達は聖書信仰に立ち、聖餐を重んじ、罪深いこの世から分離した生活を励みました。20年後、22の教会によって、「自由福音教会同盟」=ドイツの教団が結成されました。

「同盟」は、敬虔主義・福音主義の信仰に立つ、自立した諸教会の、霊的で有機的な奉仕の交わり」です。同盟は、海外宣教、国内宣教、教会建設、神学教育、福祉、出版等の働きをしています。ドイツの「自由福音教会同盟」には、2005年末現在、約400の教会と35,000人の教会員が所属しています。子ども達は約12,000人、10代は4,000人、青年は約5,000人です。

    「ドイツ・アライアンス宣教団」

「中国奥地伝道団」を創設したハドソン・テーラーからの、「1000人の宣教師を中国へ!」という呼びかけに応えて、1889年、超教派の「アライアンス・チャイナ・ミッション」が生まれました。翌年には最初の3人の宣教師が中国へ派遣されました。1949年、共産党政権の中華人民共和国が成立し、外国人宣教師は不必要とされ、国外退去させられてしまいました。アライアンス宣教団は、1951年に日本を次の宣教地と決定し、翌年、名称を「アライアンス・ミッション・バルメン」と変更し、新しい世界宣教の働きを始めました。その後、宣教団は、次々に新しい国々に宣教地を拡大し、今日では、150人以上の宣教師が、世界各地で奉仕しています。

アライアンス・ミッションの基本理念は、「主イエス・キリストへの救いの信仰を宣べ伝え、神の愛を言葉と行ないによってあかしし、信じる者をイエス・キリストに従うように導き、キリストの教会を建て上げることにより、神の栄光を現す。」ということです。この宣教団のモットーの下、15以上の国と地域において、聖書翻訳、伝道、教会開拓、神学教育、医療支援、子どもや青年の働き、飢餓や災害被害者援助、文書伝道、ラジオ放送等、さまざまな分野で、宣教師たちは奉仕しています。神の救いは性、血統、人種、国籍、宗教等には関係なく、全ての時代の、全ての人に必要です。誰もが言葉と行ないによって神の愛を知るべきです。そのために、アライアンス・ミッションは、全的福音を全人類に宣べ伝えているのです。

私たちは、日本における50年に及ぶドイツ・アライアンス宣教団と多くの宣教師たちの働きに感謝しましょう。そして、「救われたのは救うため、宣教されたのは宣教するため」というモットーのもと、全世界に、主の福音を宣べ伝え、教会を建て上げる、主のお働きに献身しましょう。

  「世界自由福音教会同盟」

西欧と北欧各地で生まれた「自由福音教会」は、次に北米へ拡大しました。

さらに、欧米の諸教団と宣教団の働きによって、東欧、南欧、南米、アジアとアフリカの各地に、若い自由福音教会が次々に生まれました。20世紀末には、世界の数十の国々に「自由福音教会(同盟)」が建て上げられるまでになっています。日本には4つの自由福音教会系の教団があり、「日本自由福音教会連盟」の交わりを持っています。2005年末現在、世界の約30の自由福音教会同盟(教団)が、約40万人の教会員と共に、「世界自由福音教会連盟」を結成し、国際的な交わりをし、様々な協力の働きを推進しています。

以上文責・後藤喜良(元「同盟福音基督教会」代表役員)

私たちの教団「同盟福音基督教会」のアイデンティティとスピリット

1)「聖書」信仰(新約聖書の教会)

a聖書を教えと信仰生活の唯一絶対の基準とする

⇒聖書によって他の思想や運動等を評価しよう!(例:カリスマ運動)常に全ての事柄について「聖書は何と言っているか?」と問う教会である。

⇒今後も、絶えず聖書を学び続け常に聖書を基準として歩み続けよう!

⇒聖書の教会は、完全でなく完成への途上にあり戦い続ける教会である。

b正統信条―ニケア信条、使徒信条

独自の信条は持たないが無信条主義ではない。

例:使徒信条の礼拝での告白・信仰規準の改訂と解説書

⇒今後も、信仰告白をし、健全な教えを堅持していこう!

2)宗教改革―プロテスタント教会(16世紀~17世紀)

a聖書に立ち、聖書によって自己改革していく教会

証:聖書的=会衆的長老制の教会形成

⇒今後も、聖書によって自己改革していく教会であり続けよう!

b宗教改革の三大原理―「聖書のみ」、「恵み(信仰)のみ」、「万人祭司」

→宗教改革の課題として教会論(領邦教会主義)や聖霊論等が残された。

3)敬虔主義の「教会内小教会」(17世紀~18世紀)

a主イエス・キリストとの個人的人格的関係重視

①回心と新生の(経験)強調

*教会憲法:第4条「イエス・キリストは救い主であり主であるとの信仰を告白し、新生の確かな証を立て、この教会の信仰規準、教会憲法を受け入れる者は、健康上の理由がない限り、浸礼によるバプテスマを施した上で会員として受け入れられる。」

例:洗礼準備の学び(信仰・教会生活)、教会役員(長老)会による試問

②聖書主義と聖化の重視(律法主義的傾向がある?)

「きよめ」や「キリスト者の完全」ではない「漸進的聖化論」

例:聖書研究と祈祷(会)、キリスト教倫理の重視

③世界宣教と愛の実践(福祉等)

例:FeG(ドイツの教団)の海外宣教=AM(ドイツの宣教団体)と福祉事業(病院等の施設)/希望センター(障害者福祉)等の働き

⇒主イエス・キリストに似た者へ成長を続けよう!

b「教会内小教会」―自由教会へ

例:ドイツの国教会内の福音的教会(リーベンゼラー等)

⇒主イエス・キリストの真の教会であり続けよう!

4)自由福音教会=FeG(19世紀~)

a自由教会

信者の教会―「信者のみ、しかし、全ての信者」がFeGのモットー

(例:FeGの未受洗者会員⇔同盟福音基督教会では受洗者のみ教会員)

⇒キリストの教会の公同性(世界に一つの教会)を顕示し続けよう!

b福音主義教会の交わりと協力

例:福音同盟(JEA)-世界福音同盟(WEA)-対世界教会協議会(WCC)

例:アライアンス精神(例:ドイツ・アライアンス宣教団)=超教派の宣教協力

例:東海地区での協力伝道や超教派伝道団体支援と協力

⇒超教派の福音主義教会の交わりと協力を続けよう!

5)「同盟福音基督教会」

a一つの教会

一つの信仰規準を持ち、一つの教会憲法と教団規則に立つ、一つの教会

*教団規則第56条:「全ての地域教会は、この教団の信仰基準、教会憲法、教団規則を受け入れなければならない。」

*教団規則第77条:「 全ての教役者に必要な資格は以下の通りである。

   1.主への信仰によって新生し、神から教師としての召命を受けている

こと。

2.この教団の信仰基準、教会憲法、教団規則を受け入れていること。」

例:宗教法人格も一つ(各地域教会が法人格を持つ事はない)

例:各地域教会は独立でなく自立(自立教会の自治)。

例:公用聖書は新改訳聖書、讃美歌は聖歌/礼拝式等には多様性がある。

⇒一つと教会として共に歩み続けよう!

b目標と使命=福音宣教と教会建設

*教会憲法:第3条―「この教会の目的はイエス・キリストの福音を宣べ伝え、かつ聖書に基づいた 主に喜ばれる教会を建設することにある。」

①未伝地への開拓スピリット(東海地区の教会数は全国ワースト10内)

参考:CISの報告(08年11月現在)東海地区(愛知、岐阜、三重)には500弱の教会がある(全国には約7,800)。1教会当たりの人口が22,700人で、全国平均の16,200人に近づくためには、今後200以上の教会を開拓する必要がある。

②自立教会の交わりと協力(教団理解)

例:自立教会形成は至上命令―信徒教育・奉仕者育成や十分の一献金等

⇒福音宣教と教会建設のために自立教会の交わりと協力を続けよう!

以上文責・後藤喜良(元「同盟福音基督教会」代表役員)