聖霊による一致。

筆者:シュトラウッフ・ペーター

ヴッパータール市の小さな同盟福音の教会で育った私は、幼い心の中で「教会の人々はどうやって結ばれているのか?」という質問をしていました。私にとって教会はまるで”家業”のようなものでした。実際に血の繋がった親戚ではなくても、教会の兄弟姉妹を”おじさん”や”おばさん”と呼んだりすることも多かったのです。私の家族は教会の建物に住んでいた事もあり、教会員との交わりを深く味わうことができた事もあって、子供の頃から教会の交わりに対してとてもいい印象を受けていました。しかし私が中高生の頃から、心に疑問持つことがありました。

同時にその頃から、父に福音同盟のイベントによく連れられて行ってました。ある日のイベントは3名のカナダ人によるとても印象的な説教があったり、カッコいい賛美の奏楽があったり、私にとってその一週間はとても印象に残りました。またその時初めて、キャッチーで心に馴染むような賛美を耳にしたような気がします。そしてそのイベントで多くの若者がイエスを信じる決心をしました。実はその多くは、「国教会」から来ていた人方々でした。しかし私たちは、同じ時に、同じ神様への熱い信仰を受けたので、彼らは国教会員ではありましたが、当時13歳の私は彼らをとても親しく感じていました。それは単に親しいというだけでなく、より身近な感覚がありました。しかしその時の私は、その気持ちをうまく(神学的に)説明することはできませんでしたが、今振り返ると、それは「キリスト者」と言う強い「一致」であったと分かります。

それは十字架にかかって死んでくださり、よみがえられたイエスを、第一に生きる人々が、本当の一致を持っているという事です。

全てが違っていても、イエスによって一つとされて。

これからお話しする経験は、私の人生に多大な影響を与えました。それは1967年の最初のクリスティバル、また1974年のローザンヌの「世界伝道会議」です。私たちは様々な教会、様々な種類の奉仕者であっても(信仰感や信仰の習慣が違っていても)私はそこに違和感を感じる事は全くありませんでした。そしてそのことからも今、私が確信しているのは、イエスを信じる者たちを一つとするのは、一人一人の中に住んでいられる「御霊」であるということです。それは、教会の伝統や教会の個性、また個人の個性に影響を受ける事はありません。

もちろん、そのような神学的、また各々の教会文化の一致が大切じゃないと言うことではありません。確かに私たちはイエス・キリストに対する信仰と同じく、聖書的に大切なものがたくさんあります。それは「新しい教会」ほど大切なことでもあるでしょう。しかし私たちを唯一「一致」に導くものは聖書ではっきり示されています。”心からイエス信じる人は神の聖霊を受けます”(ヨハネ7:38〜39、使徒2:38)。そしてこの「御霊による一致」は国民的、また社会的、性別に関わらず、人々を一つにします(ガラテア3:26〜28)。もちろん、様々な文化文脈の中で、私たちの”違い”は維持されますが、「御霊による一致」はそれらをも包括的に一致へと導く力です。

私はそれを、教会や神学の違いを超えて、理論的ではなく、「魂」で体験することができる機会が何回もありました。私は以前、オーストリアで行われたとあるカトリック教会の方々との会議を思い出します。それはイベント全体でも、また小グループの中においても、私たちはお互い「知らぬもの」ではありませんでした。つまり言葉で表現できない聖霊を通して、イエスにある深い交わりを経験したのです。それはこれまで私の50年以上にわたるの奉仕の中でも、最も印象深く、深い経験の一つです。

私たちは判決(ジャッジ)するべきではありません。

誠実であることに対して、より深いレベルのことが私たちの課題となりえます。ある北ドイツで行われたイベントでのことでした。牧師さんはとても優しい人柄で、私たちととても気が合っていましたが、イエスにある「真実な一致」はありませんでした。同じ言語を話し、互いに神学的な言葉を使っていたのに、内面的には「未知の人」のようでした。この内面的距離は、決して教会の建物や神学の違いで出てくるものではありません。第一ヨハネにはこのようにあります。「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなた方はそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」

この箇所が私たちに語るのは、人となったイエスへの信仰こそ神の家族の秘密であるということ。しかし忘れてならないのは、だれがその「家族」の中にいるかを判決(ジャッジ)するのは決して私たちの役目ではありません。

さて、私がこれまで語って来たことは、「イエス」の中にある一致には全く問題がないように聞こえるかもしれません。しかし単にそうではありません。以前私はしばらくの期間、自身の所属する教団の中のとある教会で起こった「争い」の解決の相談を受けていた時期がありました。相談されたいくつかの「争い」は皆違うケースであっても、基本的に同じ「一つの問題」から起きていたことを確信しています。それは人々がイエスを崇めるより、自分自身(自尊心)を崇めていました。そしてそれは個々のクリスチャンだけではなく、教会全体がそのようになってしまった事もありました。悲しいことにその時私は、教会の中で何度となく国教会やカトリク教会の信徒を見下すような態度や発言を目にしました。その内容は、国教会の兄弟姉妹は単に信仰深く見えるだけで、本当のクリスチャンではない。といった内容でした。彼らにとってそれらの人々は、確かに同じ神様を信じる親類のような存ではあるが、真の神の食卓につく者とは認めていませんでした。つまり「キリスト者」の是非が、まるで自分たちだけが判断(ジャッジ)できるといったようにです。

同時にそれは逆の立場、つまり国教会側からも同じように自分たちが判断されている事も体験しました。先にお話ししたように、国教会の信徒であった大事な霊の家族がいましたが、ある時彼らは福音派の信徒であった私たち家族をお否定的に見ていたのです。彼らから見て、真っ当な教会で礼拝していたのは彼らだけでした。また、私は国教会で説教奉仕をした時の事を思い出します。一列目に座っていた私が教会のスタッフに呼ばれて、教会の聖具室に導かれました。そこには教会の役員と牧師が集まっていて、牧師に「さて、説教者は正しい服を着る必要があるので…」と言われ、ローブを渡していました。しかし皮肉にもそのローブは首のサイズがあまりに狭すぎて、着ることが出来ませんでした。それで”正しくない”服を着たまま、説教をしないといけなくなりました。ちょっと極端的な例えかもしれませんが、その時の礼拝はあまり居心地よく感じることができませんでした。小さな事のように思うかもしれませんが、私の心にいまだに強く残っている出来事なのです。

真の霊的一致を目指して。

現在小グループの人数は5人で、20年前から習慣的な集会を行ってきました。その内3人は国教会員で、二人は福音派の教会員です。私たちは遠慮なく互いのことを話し合い、祈り合っています。私たち一人一人が同じ教会、同じ教派ではなくとも、決して批判的に互いを見ていません。ただイエスに属する兄弟姉妹がそこに集まっているのです。そして、私たちは御霊で繋がっています。(もちろん、心も通っています)この兄弟姉妹の交わりがクリスチャンネットワークの良い模範となれることを考えます。小さな所から始まり、コツコツと確実に大きくなっていく…。そのようなクリスチャン同士の一致は、地域において確かにいい影響を与えていると思います。そのようなクリスチャンの「一致」が世の光となってゆく時、福音がただの言葉ではなくて、全てを変える力となることをイエスは教え、また祈りました。(ヨハネの福音書17章23節)、ここでイエスは教会の中での集会についてお語りになったわけではありません。私たちがどのような立場の者であっても、どこの教派の者でも、イエスの弟子であることについてが語られているのです。確かに教会と教会が組織的に近づくことは宣教に大きな益となるかもしれませんが、本当の「霊的な一致」をそれだけで表すことはできません。私たちが御霊によって「真の一致」を与えられることはもう現実となっています。ある人は悔い改めて、全身全霊でイエスを信頼し、どこの教会の信徒であるかに関わらず、神の家族の一人となっています。しかし、神のご家族の一人となった以上、私たちはその家族の一人として心を尽くして生きるべきです。それこそが、本当のキリストの中にある「一致」の証となります。